About Chile

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チリについて

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チリ共和国



チリを最初に発見したヨーロッパ人

1520年10月20日、エルナンド・デ・マガジャネス(マゼラン)というスペイン船の船長でポルトガルの航海者であった。

チリへ最初に到達したスペイン探検隊指揮者

1536年、ディエゴ・デ・アルマグロである。

チリ大陸部と島嶼部

大陸部の総面積は756,096平方キロメートル、イースター島とフアン・フェルナンデス諸島、その他の海岸線に近い島嶼部の面積は合わせて180平方キロメートルである。

国土の延長距離 - 4329 キロメートル

最大幅 - 380 キロメートル

最小幅 - 90 キロメートル

平均幅 - 177 キロメートル

チリ大陸部の境界線

北 - ペルー

南 - ホーン岬

西 - 太平洋

東 - ボリビアとアルゼンチン

チリ大陸部、島嶼部、南極 - 面積2,006,096平方キロメートル

チリの首都 - サンティアゴ市、1541年2月12日、スペイン人の征服者ペドロ・デ・バルビディアが創設

公用語 - スペイン語

ナショナルデイ - 9月18日(1810年 最初の国家行政評議会)

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国歌作曲者 - ラモン・カルニセール

国歌歌詞作者 - エウセビオ・リジョ

国花 - コピウエ(ツバキカズラ)国内中央部と南部に咲く

国の踊り - クエカ

人口 - 1500万人

通貨単位 - ペソ(1USドルは 529 ペソ、2010年2月)

鉱物 - 銅、鉄、モリブデン、石炭、石油、硝酸塩

工業 - 缶詰(魚類、野菜、コンデンスミルク)、小麦粉、粉ミルク、羊毛、魚粉、冷凍魚介類、製紙、セルロース、木材チップス、セメント、皮革、洋品、タイヤ、スチール、家庭用品、自動車組立工場

農業 - ワイン、果実、小麦、穀類、とうもろこし、米、マメ類、牧畜、じゃがいも、ひまわり

主要輸出産品

銅、鉱物一般、セルローズ、ワイン、生鮮果実、魚類、魚粉、第一次林産品

主要都市

アリカ、イキケ、アントファガスタ、カラマ、ラ・セレナ、サンティアゴ、バルパライソ、ビニャ・デル・マル、ランカグア、タルカ、チジャン、コンセプシオン、タルカウアノ、テムコ、バルディビア、オソルノ、プエルト・モント、プンタ・アレナス

主要港

アリカ、イキケ、トコピジャ、アントファガスタ、チャニャラル、コキンボ、バルパライソ、サン・アントニオ、リルケン、タルカウアノ、プエルト・モント、カストロ、プエルト・ナタレス、プンタ・アレナス

主要河川

ロア、アコンカグア、マイポ、マウレ、ビオビオ、トルテン、インペリアル、バルディビア、パレナ、ベイカー

主要湖沼

ジャンキウエ、ランコ、ルパンコ、ビジャリカ、ヘネラル・カレラ、サルミエント

行政区分

国土は12の州と首都圏であるサンティアゴに区分されており、各州の中には県、その中には市がある。

教育 - 無償、初等教育8年まで義務教育

成人の識字率 - 95%

学期 - 3月から12月

初等教育 - 6歳から14歳まで(8学年)

中等教育 - 15歳から18歳まで(4学年)

高等教育 - 高校と大学

気候

北部 - 砂漠

中央部 - 温和、夏は乾燥、冬は雨が多い

南部 - どちらかといえば寒く雨が多い

南極部 - 氷河とパタゴニアのツンドラ

春 - 9月21から12月20日

夏 - 12月21から3月20日

秋 - 秋3がつ21から6月20日

冬 - 山脈

山脈 - 世界でも最も高く、長い山脈のひとつであるアンデス山脈

最も高い山 - オホス デル サラド、6880 メートル

観光客のアトラクション

スキー、ヨット、サーフィン、フィッシング、トレッキング、山、温泉、エコツーリズム

チリの歴史

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先住民

チリの南極地区には1万2千年前から狩猟・採集民族が住んでいた形跡がある。これらの先住民達は絶滅したミロドンやマストドンなどの大型哺乳類を追いかけて彼らが生息しにくい地域から移動して来た。最後の生存者達となった先住民グループの末裔ははオナ,或いはセルクナム人と呼ばれ、20世紀の後半マゼラン地域のティエラ・デル・フエゴで滅亡した。

9千年前に世界の気候が変化した後、チリの長い海岸線には多様な集落が形成された。ここの住民達は主に魚介類や野生の食べ物を採集して生活していた。人口は次第に増大し、いくつかの群落には社会的,経済的組織も生まれてきたと推察される。北部の砂漠地帯にはエジプトより更に何千年も遡る昔の人体の人為的ミイラが存在している。

内陸の谷間にも群落はあり、ここの住民達は植物や動物を利用する事を覚え、又、ある程度自然のサイクルも理解するようになっていった。これがチリ北部や中央部の農耕及び牧畜の始りである。この文化プロセスの特徴は小規模な群落であり、住民は籠を製作したり、原始的な繊維製品や土器,金属品をつくるのに充分な知識や器用さを持ち合わせていたようである。時がたつにつれてこのような文化は中央部から南部へと広がり、今日に至ってもマプーチェ文化として維持されている。

土器により表現されて来た最初の文化は、チリ南部の森林地帯(南緯37度アラウカニア地域)に紀元前5世紀頃発達した。じゃがいも栽培を含む収穫と焼畑農業は当時から始ったとされている。

ティアウアナコ(紀元300年から1000年)文化の頃に階層社会が出現した。その起源はチチカカ湖の南側にある川の流域で,後にチリの北部の谷間に広がって行った。牧畜と土器や籠の製作、繊維や木材の手工芸品はティアウアナコ文化に触れることで広まって行った。紀元10世紀頃には行政上の境界に城壁を持つ要塞が建設され、ラクダ科の動物達や農産品、魚介類などが盛んに交易され、高原地帯の王国がティアウアナコ文化に取って代わって指導権を握り、砂漠地帯の群落を統治し始めた。

15世紀にはいって、クスコからインカ民族が現在のチリ北部を支配し始め、徐々に南部へとその影響を広げて行った。その支配はマイポ川(南緯33度)まで到達し,影響力はマウレ川にも及んだとされる。

16世紀、スペインの征服と植民

エルナンド・デ・マガジャネス(マゼラン)は現在のチリの領土を初めて発見したヨーロッパ人であった。1520年、西に向かうルートを探してこの航海者は現在彼の名前が冠されている海峡を渡った。その後1535年にディエゴ・デ・アルマグロはペルーにおいて探検隊を組織し、数々の苦難を乗り越えて南に向かい、アコンカグア川(南緯32度)に1536年に到達したが金も富も発見できず、出発地に戻る事を決心した。

数年後、スペイン人大尉、ペドロ・デ・バルディビアは人の部下をひきつれてペルー南の土地を占拠する為に新たな遠征を敢行すべく出発した。陸路で1年進行した後に1541年2月12日、現在のチリの首都であるサンティアゴ市を建設した。バルディビアの征服を目指す遠征は南へと続き、その影響はビオビオ川の先(南緯37度)にまで及んだ。

当時創設された都市は人口が100名から200名、4角形の広場の周りにいくつかの小屋が建てられたものであった。入植者達は先住民,特にマプチェ族の憎悪の対象となった。彼らは長い間支配を目指すスペイン人たちの勢力に抵抗した。ペドロ・デ・バルディビアや他の多くの征服者達は16世紀の絶え間ない小競り合いや戦闘により命を落として行った。

当時アロンソ・デ・エルシージャが書いた「ラ・アラウカナ」という叙事詩はスペイン人とマプチェが繰り広げた英雄的行為とその勇気を称えたものでこの名作は現在、16世紀のスペインの代表的叙事詩として評価されている。

チリにおいて発見されたわずかばかりの金は先住民達の労働力を使ってサンティアゴやその近郊で採掘された。16世紀の最後の25年間には金の採掘量が落ち、また、ペルーの市場が開放されたことからチリの経済の特徴は変化した。チリ産品はペルーの副王領に送られ、17世紀始めには小麦の輸出が開始された。大規模荘園が鉱物に変わってチリの経済に豊かさを生み出す主要源となった。

スペインの征服を正当化するのは主として新世界のキリスト教の布教による支配である。征服者達には常にカトリックの宣教師達が同行しており、スペイン王室は彼らの活動を奨励し,支援した。しかしながら、チリや大陸内の他の国々の先住民達をキリスト教化することは容易ではなかった。異教への信仰やエンコメンデロ(エンコミエンダー権利を持つ者)達の利害が障害となった。又、聖職者人たちの中には先住民達への虐待を告発し、彼らの権利擁護を叫ぶ者もあった。

18世紀のチリ

征服が開始された頃からチリ社会にはある程度独立の機運が見られた。これは主としてペルーの副王領やスペイン本国から距離的に遠いためである。特にサンティアゴの市会は誕生したばかりの社会の利益を守ろうと願った。しかしながら、それはまだ本当の特長を保ってなされるには、十分とはいえないものであった。 スペインのボルボン王朝はラテンアメリカの自治を認めず、外国領土をより効果的に支配するよう目指していた。経済的見地からはアメリカを広大な市場,及び、王国の富の源泉とすることを志向する新しい政策が採用された。

18世紀には農業、鉱業、商業が成長した。チリ領土は引き続きスペイン権の支配,特にペルーの副王領を防衛する前線と考えられ、2世紀以上に渡りマプチェ族と対立し,海賊の侵入から領土を守るために常に軍への経済的援助を必要とした。

チリに到達したヨーロッパ人たちは次第にクリオージョと呼ばれる、大陸でスペイン人たちとの混血で生まれた者たちに取って代わられるようになり、彼らはある程度の社会的特権を手に入れるようになった。17世紀に始るクリオージョ達の貴族化は彼らに故国へのこだわりを持たせるようになった。又、彼らはヨーロッパ人、特に公務員達を現地利益の部外者とみなすようになっていった。

教育制度は限られており、芸術面では、他のラテンアメリカバロック様式とは完全に異なるわけでは無く、宗教的テーマが主流であった。最も重要な成果は科学と知識面であり、チリ人のイエズス会員が中心となっていた。フアン・イグナシオ・モリナの著書「博物誌と市民の歴史の研究」は数か国語に翻訳された。又、神学者であるマヌエル・ラクンサは当時の宗教思想の発展に大きく貢献した。18世紀末には現在のチリ大学の前身であるサン・フェリペ大学が設立された。


19世紀、独立と新しい政治機構の追求

1808年のナポレオンのスペイン侵略とフェルナンド7世の幽閉はラテンアメリカに深い影響を与え、政治的危機の原因となった。チリでは王の権威を認めた上で任命された総督に人民評議会が取って代わる事が決定され、総督は1810年9月18日に退任し、こうしてクリオージョ達が自国の行政権を手に入れるという願いがかなえられた。

スペイン王制への忠誠は揺るぎはしなかったものの、完全独立に向けての国内運動は進行し始めた。

1811年、ペルー副王領の恐れは現実のものとなった。独立の断固たる擁護者であったホセ・ミゲル・カレラは外国からの如何なる命令にも従う事を禁じた。このような形で声高に公表する事無く、副王とスペイン当局からの独立は宣言されたのである。副王はこうした事態を受け入れられず、ペルーから軍を派遣し、軍隊は独立擁護派を制圧する事に成功した。このようにして1814年にスペイン王制が再び政権を取り戻し、1810年まで存在したかっての秩序を回復した。レコンキスタ(領土回復運動)という命名で知られる時代が始ったのである。

しかしながら、欧州やアメリカの他の土地から到達した思想に影響され、厳しい新制度に反発して、独立を志向する考えは高まり、1817年2月12日のチャカブコの戦いに端を発した激しい戦いは、1818年4月5日にマイプの戦いで終結を見るまで繰り広げられた。スペイン軍を破った勢力は解放軍と呼ばれ、主としてメンドサで組織され、アンデス横断という歴史的偉業を成し遂げたのであった。

軍の最高司令官であったベルナルド・オ・ヒギンスは国の最高指導者となり、その統治は1822年まで続き,その後は様々な政治機構の導入が試みられた。始めは保守的、貴族的、モラリスト憲法主義であるがこのシステムは政治的現実性に欠けていたことから数ヶ月の短命に終わった。アメリカ合衆国をモデルとする連邦制度は国の連帯的伝統と州の資金不足から前述のシステムと同じ運命をたどった。2年後に自由主義的憲法が自由と市民権を基盤とする秩序の回復を目指した。

ホアキン・プリエト政権の下、ディエゴ・ポルタレス大臣はビジネスマンとして積極的に活動をしていた10年間の間唱えつづけていた政治的解決に全精力を注ぎ込んだ。すなわち、個人を超越した、強く尊敬に値いし、そして実際に尊敬される実力者の必要性である。このような考えは1833年編纂の憲法に形をとって現れた。同憲法はその後100年近く現行憲法であり続けた。チリは19世紀前半から秩序ある政府の確立という点では当時ラテンアメリカを席巻した無政府状態の中にあって稀有な存在となった。

ポルタレス主義から議会政府へ

ポルタレスの政治システムは19世紀後半に入っていくつかの弱点を露呈し始めた。基本原則であった大統領による権威に対して、政治グループからの抵抗は次第に強まり、権威主義が市民権や自由を損なうとみなされるようになっていった。システム改正が漸次一連の憲法改正と議会活動によって進み、行政府の権限が縮小し、議会の力が強められた。特に選挙の際の大統領による管理を弱める法律が採択されたことで大統領の権力減退は決定的となった。

こうした大統領と議会間の軋轢はホセ・マヌエル・バルマセダ政権において悲劇的結末を迎えた。議会の要求が大統領の意志に反した事から1891年度予算審議において危機的状況が生じ、武力による介入が行なわれた。議会派が勝利を収め、最終的に議会の影響の強い政府が発足し、バルマセダ大統領はアルゼンチン大使館に非難し、そこで自殺した。

議会制度の下、政治均衡は長く続かず、更に閣議のメンバーはその職務を数ヶ月全うするのみであったことからこの議会システム、特に閣僚の持ち回り任命は辛らつな批判の対象となり、非効率と統治能力の欠如の代名詞となった。

政治的問題と硝石ブームに関連した経済的問題とで国民の不満は増大して行った。政治改革を目指した軍部の圧力の増加により職務から遠ざかっていたアルトゥーロ・アレサンドリ大統領は強い後押しを得て職務に復帰し、政治憲法を改正して、再び大統領制を確立することができた。今日に至るまでチリの政治システムは基本的に議会大統領制である。



国際貿易への経済開放

独立以来、チリ政府は貿易の自由化と市場進出を阻む法的障害の撤廃に取り組んできた。チリ産品の外国市場への輸出は常にチリの経済発展の柱となる基盤であった。例えば、硝石や銅の生産は欧州やアメリカ合衆国の需要に対応するものであり、又、1849年以降になって発展し始めた農業や林産は、カリフォルニアとオーストラリアという新規市場に対応するものであった。

このようにしてバルパライソ港はホーン岬を経由する太平洋ルートの主要航海の中心となり、南米の西海岸全体で最も活発な貿易が展開される場所となった。その結果、数限りない外国商人が押し寄せ、その影響はアルゼンチンやボリビア、ペルーそして南米の他の国々にも及んだ。

貿易と鉱業、農業活動の結果、得られた富は国の広範な分野に利益を与え、財産の蓄積に貢献した。官民によるこれらの資金と外国投資により、鉄道建設や、電報電信、蒸気船による海運サービスが進み、国の物質的様相は一変した。

19世紀中頃、チリの経済的繁栄に深刻な障害が生じるようになった。1870年代には銅と銀の市況が世界的に落ち込み生産量も低下したため、鉱物輸出による収入が劇的に減少した。更に、対外市場の影響で農業も困難な状況に陥り、その後のパナマ運河建設により、バルパライソの太平洋岸における供給の中心地としての重要性が相対的に低下した。これらの出来事により国の歳入が減少し、銀行機構にも問題が生じた。

この頃、硝酸塩の埋蔵地と肥料が経済の新たな突破口となった。北部へと進出するチリの労働力と資本はチリの国家としてのプレゼンスを高め、この領土への近隣諸国の関心を増した。ペルー、ボリビアとの戦争は太平洋戦争と呼ばれ(1879-1883年)これにより領土紛争に終止符が打たれた。

タラパカ地域の資源によりチリは硝酸塩の市場独占を事実上可能とし、豊かな収入源とする事ができるようになった。これらの資金は広範に公共工事に投資され、政府の役割を広げることにもなった。再び貿易が国家経済にとって重要な存在となったが、硝酸塩の場合は国際的市況に依存することとなった。最初の問題の兆候はチリの硝酸塩と競合する合成品が発見された第1次世界大戦の頃に出現した。いずれにしても同産品は1929年の世界恐慌までわが国経済の重要な要素であった。

この恐慌は主として硝酸塩と銅、農産品に依存していたチリの輸出に深刻な影響を与えた。輸出量は半分に落ち込み、輸出額は以前の4分の1となった。世界貿易の危機に起因する停滞はチリ経済を再編過程に導くこととなった。



社会の変遷

19世紀の後半、世界人口は地方から都市、そして鉱業中心地への移動の推移を開始した。1895年、サンティアゴの人口は25万人であった。25年後、この人口は倍増した。その後いくつかの鉱業中心地が不況となったことから都市への人口流入が増大した。

労働階級の出現はビジネスマンや公務員、職人などの専門職による中産階級の台頭を補完した。一般的にこうした人々は当時の政党を代表するものでは無く、むしろ政党を寡占独裁であるとみなしていた。従って彼らは19世紀当初からその影響力の行使を模索していた。1920年、アルトゥーロ・アレサンドリの大統領選挙勝利は、中産階級の発展を示す最初の現象の一つとなった。



教育

独立時代から、政府は国内における教育と文化の振興を積極的に進めてきた。このことは初等、中等教育の学校の建設や教師の教育訓練センターの整備ということにもみられる。こうした精神の下で、ブルネス大統領政権は(1841―1851)は多様な外国の教職者と契約し、これらの教育者達がわが国の文化形造に基本的に重要な役割を果たした。特にベネズエラ生まれでチリに30年間在住したアンドレス・ベジョは法律,外交、教育などに大きな影響を与え、チリ大学の創設に貢献し,自身も学長として死ぬまで教育に身を投じた。

20世紀に入り、財政資金からの投与が増大して初等、中等教育は一層広がりを見せたが高等教育は20年代に入るまでサンチャゴ市に集中していた。徐々に国の支援により重要な州都に教育の場が設立されて行くようになった。これらの教育機関は、研究や通常教育活動の拡大、区分によりチリの文化生活に中心的役割を果たすようになった。美術や演劇、音楽、舞踏等が大学の資金援助を受けて普及した。最近ではこの過程に市町村や個人の支援が加わるようになった。

これとは逆に、チリ文学の成功はむしろ個人の業績によるところが多い。作家達はどちらかといえば批判的なものの見方でみずからの存在性(アイデンティティ)を見出してきた。いずれにしてもチリは詩の分野でビセンテ・ウイドブロ、ガブリエラ・ミストラル、パブロ・ネルーダ等の偉大な文学者達を輩出した。後述の2名はノーベル文学賞を受賞している。



新しい経済の方向性

1930年代の経済危機の始りは、政府に強力な工業開発政策の採用を余儀なくさせた。この政策は当時の世界の傾向に沿って輸入品に高い関税をかけ、国内製造業を保護し、輸入代替を計るものであった。政府はこの課題に中心的役割を果たし、エネルギー部門のように多額の投資を必要とする分野の開発に直接参加した。同時に、農業のような伝統分野の重要性を低下させた。農業の場合、政府が人為的に農産品の価格を低く固定したために栽培量が落ち込み、基本的農産物でさえ輸入に頼るような状況まで惹起した。

農業の停滞と硝酸塩産業の崩壊により、チリの輸出は基本的に銅が支えることとなった。20世紀始め以降、アメリカ合衆国の企業を中心とした外国資本はチリ銅山に集中し、その生産と貿易を管理するようになった。チリはこの重要な資源の管理を目指して先ず,政府が銅関連企業の資本の過半数を取得することに務め、続いて1971年7月11日に大規模な銅の埋蔵地を管理する事によって銅の国産化過程を終了させることができた。

この成功にもかかわらず、公営事業の傾向の強いこの経済政策は成長をもたらすことができず、特に中産階級以下の層に満足を与えるものとはならず、貧困の軽減のために必要な資金を提供する事もできなかった。このような状況はインフレによりますます悪化し、1950年以降事態はより深刻となっていった。

世界の冷戦とイデオロギー紛争は60年代にチリ国内においても、政治社会勢力の対立の図式となって顕在化した。

1973年9月11日の軍事クーデターにより、チリにおいて過去に見られなかった政治暴力がはびこり、このような状況はやっと80年代の中頃に収拾された。1988年、国民投票により軍事政権に終止符が打たれ、1989年、12月には総選挙が行なわれて、連立政権の長としてパトリシア・エィルウイン大統領が伝統的民主主義の原則を再び確立した。

キリスト教民主党、民主主義のための政党、急進社会民主党、社会党を含む連立政権はその後2人の共和国大統領、エドゥアルド・フレイ(1994―2000)リカルド・ラゴス(2000―2006)も代表として選出している。

この最近の3つの政権が適用した政策は、より貧しいもの達の生活条件の向上を優先していた。国の支出の70%は教育と健康医療、住宅に向けられた。これにより国民の識字率は97%に達し、貧困水準にあるとみなされる国民の数は大幅に減少した。

現在進行中の経済政策は、国内の政治条件と国際経済条件が整ったことから、貿易の拡大と、輸出及び輸出先市場の多角化を可能にした。チリの経済は開放されており、以下の4つの方法で市場の自由化を推進させようとしている:一方的な関税の引き下げ、地域貿易機構への積極的参加、WTOの活発なメンバーであり、同時に二国間の自由貿易協定を推進している。過去12年間にチリは年間平均6%を上回る経済成長を遂げており、最近の国際的な経済危機にも対処することができた。